図書館には妖精がいる ①
「時間ってさあ、狭すぎるよね」
「狭い?」
誰もいないカウンターの奥の壁にかけられた時計は、三時を指している。正面玄関の上の大きなガラス窓から注ぐ月明かりの中で、ゆあれちゃんは堂々と床に寝転んで頬杖をついていた。片足を持ち上げてフラフラ揺らすから、フリルとレースの桃色スカートから、ふわふわのドロワーズが覗いている。パフスリーブの上で、薄桃色のくせっ毛が揺れる。
「だって、こんなにたくさん……」
そう呟いて、ゆあれちゃんは、開いていた絵本を捲った。(もちろん私たちは、本を直接床に置くなんて無礼なことはしない。辞書の厚み分くらいは浮かせてある。)その、瞳と同じ水色の爪が、すうっと、挿絵のうさぎを撫でた。すると、本の中からブルーグレーの光がぽわんぽわんと飛び出して、そこここで人の形になった。
幼子を膝に乗せて、読み聞かせをするお母さん。お父さん。お兄ちゃん。あるいは、お姉ちゃんに読んであげる弟、あるいは、ひとりで夢中になって絵を眺めている女の子。
声は聞こえない。ただ、これまでにこの本を読んできた、色々な時代の人の影が、わらわらとそこにある。表情や仕草から、優しさや楽しさ、嬉しさ、そんな温かい心が伝わってくる。
ゆあれちゃんはニコニコとそれを眺めてから、ふう!と大きく息を吐いた。それでだんだん、影たちは薄れ始めた。
「本には、こーんなにたくさん、時代が詰まってるのに。私たち妖精を図書館から連れて行けるのは、今生きている人だけだなんて! 無理無理、そんなの絶対無理だよぉ〜……って思っちゃう。蔦子ちゃん、思わない?」
「……」
私やゆあれちゃんのような図書館の妖精は、真夜中の誰もいない開架書庫で、本を開く。本の中の物語を取り込むと、瓶にインクが溜まる。瓶というのは、私たちがひとりひとつ持っているネックレスにぶら下がっているもので、形や大きさがそれぞれ違う。インクがいっぱいに溜まると、それは「幸運のインク」と呼ばれる、書く人に特別な力を与えるものになる。たまたまその時、物書きと縁があれば、そのインク瓶を渡して図書館を出ることができるのだ。
今や本の思い出の影たちは、すっかり消えてしまった。ゆあれちゃんはまた大きなため息をついて、ごろりと仰向けになった。襟元の大きな水色のリボンがひっくり返って、頬にぶつかっている。
「あ〜あ、なんであたしのインク瓶、こんなにちっちゃいのかな〜。これじゃ欲しい人、いないよ〜」
その手がネックレスからつまみ上げたインク瓶は、小指ほどの大きさで、つららを折り取ったみたいに鋭く細長い。八割がたインクが満ちていて、ほの明かりの中で黒く見えた。でも、太陽の下でなら、また違う色になるのだと、私は聞き知っている。
「私は、ゆあれちゃんのインク、好き」
「ん〜、ありがと!」
ゆあれちゃん自身は、つまんない色、と嘆くけれど、褒めると素直に喜んでくれる。ずるずると身を起こして、髪を手櫛で整えると、よし、と短く気合いの声を出した。
「じゃあ、夜明けまで、がんばろうっ」
「うん」
ゆあれちゃんはカウンターのすぐ前にある新着本の棚に向かった。子どもたちの夏休みが終わる頃で、自由研究や昆虫採集の本は姿を消し、栗とさつまいものお菓子レシピ本だとか、根気の要る手芸本だとかが並んでいた。私は少し奥に入って、新聞ラックから一番手前のものを抜き出した。その日の全ての新聞の、全ての頁を読むようにしている。閲覧台に広げた紙面に、ベルベットのドレスの袖の黒いレースが、なり損ないの文字のような淡い影を落とした。
時折面白い発見を告げ合いながら私たちは、海の向こうから日が昇る頃まで、頁を捲っていた。いつもみたいに。
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