デッケェ桜間さん

 家に帰ったら家がなくなっていた。それを「家に帰ったら」と表現していいのかわからない。両隣のお宅は無傷なのが救いだ。私たちの暮らすメゾンと隣の建物との間の細い隙間から、髪をポニーテールに括ったのとみが、小走りに出てきた。

「おかえり、LINE見た?」

「見てない」

「桜間さんが大きくなっちゃって、メゾンが壊れたから、今日裏庭でキャンプになったの」

「今北産業……」

 で、私たちの大家さんはどこで寝るんだろう。

「風邪引いてたでしょ、桜間さん。こじらせちゃったみたいね。まだ頭痛がって言うから、イブかなんか飲ませたいんだけど、何錠行くかで意見が割れてるの」

「1B」

「Bottleね」

 のとみが笑う。蝶番の歪んだ玄関を開けてみると、一階の天井、あるいは二階の床を突き破って、外れた屋根を帽子みたいに突っかけた桜間さんが、膝を抱えてぎゅうぎゅうに縮こまっていた。顔色が悪く、微笑みが弱々しい。額に濡れたバスタオルが貼り付いている。冷えピタの代わりに誰かが用意したのだろう。

「冬嶋ちゃん、おかえり」

「ただいま。具合は?」

「メゾンは、だめそう〜ごめんねえ」

「桜間さん」

「私はねえ、うん、ちょっと寝てよくなってきたところ」

「起こしてごめん」

「ううん、へいき。今日、みんなキャンプなんだって、いいなあ」

「桜間さんが元気になったら、一緒にハンモックでお昼寝するのはどう?」

「うふふ、ありがとう。優しいねえ、元気が出た」

 そう言って、桜間さんはふうと息を吐いて、目を閉じた。風で屋根がペラペラと不穏な音を立てた。

 玄関扉をそっと閉める。

「どうだった?」

「あの大きさじゃ、飲ませる水の方が足りないかもね」

 のとみは黙って肩をすくめると、裏庭に向かって歩き出した。後を追う。パンプスのヒールが、通路の白い小石に刺さって歩きにくい。庭が近づくと、カンカンという澄んだ音が聞こえてきた。誰かがテントの設営のために、ハンマーでペグを叩いているのだろう。迷いのない音はキャンプに慣れているゆゆしのものだろうか。

「あ、パジャマ……」

「持ち出しといた」

「さっすが」

「シャワーは使えないから、清拭だけど」

「一晩ならね」

「そうなることを祈るよ」

 のとみが神妙に頷く。「あっ女史!」とゆあれの声がする。そのそばに立っていたゆゆしが「おかえり〜」と手を振った。カァン、とひときわ高く金属が鳴る。とすると設営していたのは蔦子らしい。頑健な骨組みが好きだという彼女には適役なのかもしれない、と思う。

「じゃ、手洗ってきてね」

 のとみはギアケースからライトを取り出して蔦子のもとに向かった。手元を照らしてやるのだろう。私はバッグを肩から下ろし、そのへんに敷かれているシートに置いて、庭の水道に向かった。水を流しながら、メゾンを見上げる。歪んで、窓が割れている。桜間さんが元気になれば全部もとどおりになる、わかっているけれど、彼女の今夜がせめて安らかであるようにと思う。祈っていても仕方ないので、後でご飯と、何か飲み物を持っていく。砂粒みたいなものかもしれないが、気持ちは態度にしなければ伝わらないものだ。

 スラックスのポケットのハンカチで手を拭いていると、ゆあれが歩いてきた。

「女史〜一緒に買い出し行かん?」

「何が要るって?」

「バケツアイス」

「行ったろうじゃん」

 以前買った、スクープは台所から取り出せたのだろうか。なくても、ゆゆしがなんとかするだろうが。あるものでなんとかするのがキャンプというものだ。らしい。

「ゆあれちゃん、アイスだけじゃなくて、焼きたいものも忘れないでね」

 ゆゆしが後ろから叫び、ゆあれが敬礼する。

「アイアイサー!」

「マシュマロだけとか、だめだかんね」

 釘を刺す。ゆあれは黙る。

 釘を追加する。

「チョコとビスケットも買います〜も、だめだかんね」

「……あい」

 さっき置いたバッグから財布だけ取り出して、ジャケットのポケットに入れる。長財布はバランスが悪くて、結局手で持った。

「じゃあ、行ってきます」

「行ってきま〜す!」

 再びメゾンの横を、じゃりじゃりと音を立てながら行く。細く切り取られた夜空に、点々と星が見える。