桜間さんが風邪を引くメゾン

猫ゆゆ+喋蔦子

 鉛筆で何か書いていた。かりかり、かりかり。黒鉛が潰れ、紙に木が擦れる。かり、かりり……。目が覚めても、音は続いていた。めがねをかけて、ドアをそっと開くと、なー、と、何か鳴いた。

「ねこ……」

 白い猫が、灰色の瞳で見上げていた。首に空色のリボン。親しげに、なー、と鳴いて、足に擦り寄る。


小冬嶋+のとみ+ゆあれ

「ア」「あ」「ド」「ろ」「ベ」「べ」「ン」「ん」「ト」「と」「アドベント」「あおえんと」

 凛とした復唱に、手本役は天を仰ぎ、傍観者は笑い出した。

「よりによって青江ント……」

「あおえんとちがう、あおえんと!」

 小さな頬を赤くした彼女は、笑い崩れる二人を、順にもみじの手で叩く。ぺちぺち。


チョコレートモンブランタルトを単品で

 白い猫について町を歩いていたら、すっかり暗くなってしまった。水路を辿って町外れの森に入り込み、心地よい泉や木陰を見つけた。帰り道、あたらしいケーキ屋さんの前を通ったので、ケーキを六つ、選んで買った。大きな箱を片手に、居間の明かりが灯るメゾンの玄関を開ける。猫は駆け出して、器用に手前のドアを開けて行った。白い尻尾を見送り、ショートブーツをゆっくり脱いで、洗面所で手を洗って居間に入る。テーブルに二人、いや、三人いる。猫は冬嶋さんの肩の上で、右へ左へ向きを変えていた。冬嶋さんは、私にパッと顔を明るくして、子犬が尻尾を振るように手を振った。

「あ、蔦子ちゃん、おかえりー」

 ……パッと顔を明るくして、子犬が尻尾を振るように手を振った?

「……ただいま、戻りました」

 戸惑いながら、ドアを閉める。ケーキの箱をテーブルに置いて、冬嶋さんの向かいに座った。隣にはゆあれさんが突っ伏している。珍しくお団子を解いていて、乱れた朱鷺色で顔が見えない。その奥で、レシートの山を傍らにスマートフォンを操作するのとみさんが、おかえり、と言う。家計簿を付けているのだろう。

 冬嶋さんは、わあ、と言いながら、ケーキの箱をあちこちから覗き込んでいる。ケーキの、箱、であって、どう見ても白いだけなのに、その紫の瞳の、無邪気なきらめきは。

「……ゆあれさん?」

 "冬嶋さん"は姿勢を正して、のとみさんに目をやる。

「早い、もうバレた」

「そうでしょうねえ」

 のとみさんが頷いた。"冬嶋さん"は、"ゆあれさん"の頭に視線を移す。その切れ長の瞳が、普段よりも大きく見える。まつ毛がくるんとして、瞼が淡いピンクにきらきらしているのだ。服はいつもの黒いワンピース、髪もさらりと下ろしただけ、それでも冬嶋さんのクールさより、かわいらしさの印象が先に立つ。

 ゆゆしさんが猫になっているように、他の住人にもおかしなことが起きていたのだ。二人を心配して、思い出す。ゆあれさんは今日、予定があったはずだ。

「今日は……?」

 "冬嶋さん"は頷いて、澱みなく説明を始めた。途中、あちこちを指さしながら。

「桜間さんが風邪引いて、今寝てるんだけど、たぶんそのせいで、起きたらこうなってた。ていうか、起きたら目の前にのとちゃんがいてほんとびっくりした。一緒に寝るのどうなの」

「いいじゃんか、別に」

「まあそれはそう。で、ゆゆちゃんが猫になってんのもそれかな、桜間さんの風邪。『ゆあれ』は今日の昼、親愛なるフォロワーと会う予定があって、迷ったんだけど肉体優先で中身が女史のまま行ってもらったら、身バレして帰ってきた。で今こう」

「あんなに感嘆符の練習したのにねえ」

 のとみさんがスマホから目を上げないまま、揶揄うように嘆いた。冬嶋さんが感嘆符の練習をしているところを想像する。『お会いできて嬉しいです!!!!』とか、だろうか。……気の毒に。

「……どうして、」

 中身が違うとわかったのか、という問いを、二人は察した。声が揃う。

「「ランチのケーキを単品で頼んだから」」

 "ゆあれさん"がガバリと顔を起こし、テーブルぎりぎりの高さから見上げてきた。水色の大きな瞳が潤んでいる。

「だって、大きいのが食べたかったから……!」

 のとみさんが面白そうに言う。

「あっ、今のは似てる」

 "冬嶋さん"も手を叩いてはしゃいだ声を上げた。

「似てる似てる、私に」

「似たくない! っていうか私の格好でキャアキャアすんのやめてよ〜」

 なー、と、なだめるように猫が鳴く。猫は"冬嶋さん"の黒い肩から飛び降りて、頬をテーブルにぴったりと当てたままの"ゆあれさん"の鼻を舐めた。私はその朱鷺色の髪をほぐすように、何度か指を通した。細くてやわらかな髪は、梳かれるうちに、お団子の名残を少し和らげた。"ゆあれさん"は、くすん、と鼻を鳴らす。最後に頭をそっと撫でて、私は席を立つ。"冬嶋さん"が言う。

「どした?」

「ケーキを……」

 そう答えて、台所に行く。まず取り出した浅い皿にミルクを注いでいると、猫が寄ってきて、なー、と鳴いた。牛乳パックを冷蔵庫に戻して屈み、猫の頭を指先をつつくと、目を閉じて喉を鳴らした。

 桜間さんには、後で残ったケーキを持って行こう。皿とカトラリーを人間の数だけ出しながら、冬嶋さんにはいちばんにケーキを選んでもらおうと思う。大きなケーキは、一日に何個食べてもいいものなのだ。